沿革

社名の由来

当社は創業以来、仲セルロイド加工所、第一工業、小野産業などの社名の変遷を経てきました。仲セルロイド加工の「仲」は創業者の仲晁三郎の名前を、小野産業の「小野」も仲セルロイド加工を発展させた第二の創業者といえる小野清一の名前を冠したものです。
現在ではプラスチックなどの材料に置き換わり、使用シーンがほぼなくなっているセルロイド。
当社創業当時の1900年初頭には最先端の材料であり、当社にとっては新たなものへの挑戦を示すものと考えています。
セルロイド加工から始まった当社の歴史ですが、第二次世界大戦後に大きな変化を迎えます。大日本セルロイド社(現在のダイセル株式会社)からセルロイド加工メーカーの中でいち早く(当時としては次世代の材料である)プラスチック成形への取り組みを始め、現在に至ります。
そして創業、そして発展期に続く新たなスタートとして社名をタクセルと変更しました。
「新しいことへのチャレンジ」を示すものとして祖業のセルロイド(Celluloid)のCELの文字を社名に含め、そしてお客様や社会の期待を“託して”もらえる、「TAKCEL」という社名を掲げることにしました。

<英語表示> TAKCEL corp.

<中国語表示> 特克塑

※中国語では、タクス[te-ke-su]という発音になります。日本語発音では、『託せる』、中国語発音では『託す』の意味を込めています。
この漢字の意味ですが「克」は克服する、の意味もあると同時に、「克」が重量のグラム(g)の中国語表示であることから、小さい、ことも示します。
「塑」はプラスチックの中国語(塑料)です。
つまり、この特克塑は、当社独自のヒート&クール成形技術であるRHCM技術を活かした微細成形と合わせて「微細プラスチック」の意味になります。

タクセルの歴史は日本のセルロイド生産史、プラスチック生産史に重なります。
日本におけるセルロイド生産が本格化したのが明治41年(1908年)頃のことです。

そのような時代のもと、仲晁三郎が小野産業の前身である仲セルロイド加工所を設立したのは大正13年(1924年)になります。

大正12年の関東大震災の翌年、当時国内最大手のセルロイドメーカーであった大日本セルロイド株式会社(現:㈱ダイセル)が被災したセルロイド加工業者のために、葛飾に賃貸工場を建設しました。その頃の葛飾は日本のセルロイド生産を大阪と東京が二分していた当時の、東京における集積地でした。それまでに東京・浅草でセルロイド加工業で修行した後に独立した晁三郎は、その大日本セルロイド社が用意した賃貸工場の一棟に入り、これがセルロイド加工業の出発となったのです。

文明開化のひとつであったセルロイド製品ですが、大正時代から昭和の始めにかけてはセルロイド業にも古い徒弟制度、「お店(おたな)」と呼ばれる販売業者が加工業者を率いるなど近代工業前の封建的な雰囲気が残る時代でした。
やがて現在のプラスチックに置き換わることになるセルロイド業は、日本のものつくりが職人技から近代的な大量生産に進化する時代の変化を迎えたまさにそのときに、大きく成長していきます。

この時代に設立されたタクセルは、一貫して日本のものつくりを下支えする成形メーカーとして歴史を重ねていくことになります。

創業期

1924~1944 (大正13年~昭和19年)

大正13年に仲晁三郎が25歳でタクセルの前身である仲セルロイド加工所を設立し、タクセルの歴史が始まります。晁三郎が若くして急逝し、晁三郎の甥である小野清一が実質的なリーダーとなった当時、清一は24歳でした。こうして新生・仲セルロイド加工所は新たな歴史を積むことになりますが、この頃(1937年当時)には、日本のセルロイド生産は世界生産の40%を占めるほど隆盛していました。
昭和15年(1940年)に有限会社化した際の従業員は15名でした。戦時下、栃木に疎開し栃木工場(現・箱森工場)を開設したことが現在まで続く、栃木でのものつくりの縁となっています。

年号 会社のあゆみ
1924 仲晁三郎が、東京府葛飾郡寺島町に仲セルロイド加工所を設立
1931 東京の向島区寺島町に東京工場を設立
1933 晁三郎の急逝に伴い、小野清一が共同経営者に就任
1940 有限会社化し、小野清一が取締役社長に就任
1943 関セルロイド加工所と統合し、第一工業株式会社に改組
1944 栃木工場(現在の箱森工場)の稼動開始
1944 葛飾郡上平井町(当時)にて上平井工場の稼動開始
転換期

1945~1962(昭和20年~昭和37年)

戦後、小野産業株式会社として改組し、新たなスタートを切りますが、物資不足や金融引き締めによる不況などにより合理化に迫られるなど、小野産業にとって困難な時期でもありました。
こうした中、小野産業は昭和27年(1952年)に大手文房具メーカーから文房具生産を受注します。これが現在のプラスチック射出成形メーカーへの転換に繋がるきっかけとなります。主力製品が文具品となり、そしてその文房具の材料がセルロイドから徐々に現在のプラスチックに代わっていったからです。
昭和30年代になり、世の中ではセルロイドよりも製品的に安定した現在のプラスチックが徐々に普及し始め、セルロイド製品の代替品としても急速に普及していきます。このことは、セルロイド製造業者にとって変化を迫られ、多数の生産業者が淘汰・事業転換させられる大きな試練となりました。
小野産業は昭和34年(1959年)には長年の取引形態であったセルロイド問屋との取引も終え、今に至るプラスチック成形メーカーへと完全に転身しました。

年号 会社のあゆみ
1945 小野産業株式会社に改組
1946 葛飾区寺島町の曳船に本社社屋を建設
1952 文房具メーカーとの取引を機に、日用品生産から文房具生産に移行
1957 JIS認定工場となる
1961 この頃に、時計メーカー・電機メーカーとの取引開始
1962 埼玉県草加市金明町に草加工場建設、稼動開始
発展期

1963~2014(昭和38年~平成26)

昭和30年代後半には文具向けから時計や電気製品向けのプラスチック部品生産に徐々にシフトし、北関東に製造拠点を構える電機メーカー事業場との取引によって業績が拡大します。
昭和42年(1967年)に工場を拡張して事業成長の基盤が整うことになりますが、更に昭和50年には栃木所在の大手電機メーカーへの安定供給を目的に、現在の本社である栃木県西方村(現:栃木市西方町)に大型成形機を擁す工場を建設することになります。
この後、1990年代バブル期まで石油ショックの一時期を除き、一貫した成長を遂げていきます。バブル崩壊ののち、日本のものつくりのプレーヤーに大きな変革が求められる中、小野産業は新たにAV機器用のプラスチック成形など新分野に取り組むことになります。更に自社技術であるRHCMを活かしたゲーム機外形部品など、分野は更に広がりました。しかし平成20年(2008年)の金融ショックが製造業に与えた影響は大きく、国内プラスチック成形メーカー同様、小野産業にとって極めて厳しい外部環境となりました。

年号 会社のあゆみ
1971 東京工場の敷地を拡張し、本社ビルを建設
1975 栃木県西方村(当時)に、白物家電向け大型成形専用の工場(西方工場)を建設
1994 西方工場に食品容器専用の新棟が完成し、稼動開始
1995 東京工場の閉鎖
1995 第三者割当を実施し、資本金を1億8646万円とする
1996 株式会社フナトを買収
1999 店頭公開市場に株式公開
2005 草加工場を閉鎖、草加市に本社ビルを建設
2006 ゲーム機外形成形生産のため、台湾マイタック社と事業提携
2011 本社ビルを売却し、西方工場に本社機能を移転
そして
これから

2015~(平成27年~)

平成27年、当社は高島株式会社のTOBを受け、高島グループ入りしました。
そして、新たに取り組み始めたのが「医療部品プラスチック」生産へのチャレンジです。
それまで持っていたクリーンルーム成形ラインを医療部品専用ラインに改造し、医療部品製造オペレーションを新たに構築しました。
また、ヒート&クール成形の独自技術であるRHCM技術を活用した微細成形に取り組み始めます。
こうした新しい取り組みを象徴して、当社はタクセル株式会社と社名を変更しました。

年号 会社のあゆみ
2015 高島株式会社のTOBを受け、高島グループに入る(上場廃止)
2018 ISO13485(医療機器の品質管理システム)を取得
2019 医療機器製造業許可の取得
2020 タクセルに商号変更
2021 医療機器パーツ専用棟の新工場を建設